特別企画「ともに」

第2回
5月14日(土) 13:00~13:54


「ともに感じる」
~弟が大好きだった青い鯉のぼり~
 東松島市の高校生は今回の津波で、祖父母と母親、5歳の弟を亡くしました。
 弟が「青い鯉のぼり」を好きだったのを思い出した兄は、子供の日に津波の心配のない空に泳がせたい。その思いを相談した和太鼓ユニットプロデューサーがインターネットで呼びかけると、全国各地から「青い鯉のぼり」が届きました。
 5月5日。200匹のこいのぼりが、弟や犠牲になった人たちの供養にと、青空に元気に泳ぎました。このプロジェクトが終わり、兄はこれをすべての原動力にしたいと、震災からの2カ月を振り返りました。震災で多くのものを失いましたが、兄は復興に向けた歩みを一歩一歩進めていきます。


「ともに感じる」
~南三陸町 歌津地区の避難所の「いま」~
 南三陸町北東に広がる歌津半島は港ごとに集落があり、集落ごとに避難所があります。こうした避難所は規模が小さく、行政が実情を把握しにくいところもあるといいます。「宮城復興支援センター」の船田究さんは、トイレットペーパーとティッシュ、紙皿といった生活必需品を定期的に届ける「定期便」の活動を始めました。行政がそれぞれの避難所のニーズを拾いきれていない部分を、支援の「継続性」といった考え方で支えています。
 伊里前では津波で壊滅的な被害を受けた集落を、そっくりそのまま高台の土地に移転して、海の仕事を続けながら新たな集落を作ろうという構想が持ち上がっています。その土地は組織が所有しており20ヘクタールにも及ぶ広さです。
 また別の集落では、地区の行政区長が所有する自宅裏の高台の土地を宅地にして、集落を再建できないか探っています。そこには海の復興に対する住民の強い想いがあります。


「ともに見つめる」
~離島の今!復興に向けて気仙沼大島~
 地震発生以来、しばらく孤立状態だった気仙沼市大島。ここには、党内で独自に災害対策本部を立ち上げ、避難所の設置や支援物資の仕分け、配給などをとりまとめてきました。震災から2カ月がたち、今も災害対策本部と二人三脚で復旧作業に取り組んでいるのが、20代から40代の島の若手グループです。連日、支援物資の搬送や島にやってくるボランティアの送迎、がれきの撤去などに精を出しています。平成18年、環境省の「快水浴場百選」の特選にも選ばれた美しい砂浜を自分たちの力で以前の美しい姿を取り戻す、そんな思いで砂浜の清掃作業に取り組んでいます。


「ともに思う」
~年は特別な思い!一高二高定期戦~
 今年で66回目を数える仙台一高二高野球定期戦。今年は震災の影響で開催が危ぶまれました。若林区の一高野球部グラウンドは津波で被災。グラウンドが使えず、練習場所を転々としていましたが、失ったボールや練習場所を提供してくれたのは、ライバル関係にある二高野球部でした。
 定期戦に欠かせないのが両校のPR行進です。今年は野次りあうことなく、両校がともに並んで行進する例年とは違うスタイルをとりました。一番町には宮城、そして東北の復興を願うエールが響き渡りました。
 特別な思いが詰まった伝統の定期戦、高校生の青春をかけた熱い思いが繰り広げられました。


「ともに歩む」
~避難住民が後押し…縫製工場再開へ~
 気仙沼市本吉に知る人ぞ知る、ジーンズの縫製工場があります。一つ一つがすべて手作業、その縫製技術は高く、国内外の有名メーカーから依頼が舞い込んでいます。その工場は高台にあり、震災直後、高台にあるこの工場は、指定避難所ではありませんでしたが、多くの住民を受け入れました。
 そして震災から3週間後、工場に避難していた住民の後押しで、操業を再開しました。避難所として受け入れてくれた恩返しにと、住民が発電機を運んだり、遠くの沢まで水を汲みに行ってくれたのです。
 女性社長が最初に作ったのは住民への感謝の気持ちを込めたデニム地のバッグでした。
「考えられないくらいの優しさを皆さんからいただいて。下ばかり向いていたのでは何も始まらない。復興は出来ません。頑張ってるな、応援してよかったなと言ってもらえるように、みんなでこれからも力を合わせます」